投機性 と 本能性

 『ヒトのヒトらしさとは?』と問われれば、収拾は付きません。しかし、ヒトを知らずして成立しえないならば、その欠片を拾い集める労苦は避けて通れない手続きでありましょう。数ある欠片の中でも”投機性”は、中核に据えても異論のない属性と思います。馴染みのない方がいれば、調べて見てください。多くは、「賭け事・遊び」の意に終始してしまいがちではありますが、その枠組みだけでは到底了解出来ないものです。漢字の出典は、仏教用語であり、「思索・推測」も含意されます。英語にすれば、「speculation」になります。また哲学の原点では、これこそ”イデア”世界そのものに返ってゆくでしょう。

 この辺りの学術解釈で著名なものは、カイヨワ ホイジンガ が挙げられます。

 もうお分かりと思いますが、投機は正に”抽象化能力”が媒介しているということです。そして当然に抽象化の権化は、「言語」になる訳ですから、自在なる知の遊びの沃野を提供します。ではこの言語と投機を被せるときに出て来るものは何でしょうか?それは、見通し/計画/夢 という、ヒトを突き動かす最大動機に直結するエネルギーそのものなのです。意訳すれば、遊びこそ人間、ひいては、笑いこそ人間(humanの意味)に拡大するのも自明だと思います。時代的例示として、「異国の丘:戦時歌謡」増田幸治作詞/吉田正作曲 を聴けば、このことの究極の姿を現すものです。

 更にここで言いたい本題は、本能性の象徴たる「狩猟行為」の達成も、投機性があってこそ果たしうるという実態なのです。今までの説明からすれば、言語と本能の対極で扱われそうですが、その真相は双方が陸続きであることこそ、ヒトらしさの根幹と診えてくる訳です。「ヒトの動物本能性は、言語能力に依拠するものである」この一文をどう捉えるのか、教育・指導・コーチングに関わる方々の重要テーマとしての再認識になる筈です。故に、せめて豊かなる言語感覚は、生存力(:ヒトの能力開発)を創る基盤だという事実をしっかりと捉えたいと考えています。

 しかしそれに際し、「学ばなくなった日本人」との標語が流布する現代に、どう布石を打てるのか、、、。

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