雑食力
古代からのあらゆる戦史を創る背景は、全て「食」の争奪戦である事実を診るにつけ、ヒトの動物性を想わざるを得ません。それはそのまま、生存の三大欲求(食欲/性欲/睡眠欲)となり、世界を社会を国家を民族を家庭を営ませる最大エネルギーに変わります。またこれこそ、普遍性を云う観点であり、潜在意識の場になっています。ではその眼で現今の日本国を注視すれば、「島国根性/呑気/平和ボケ」の世相は否めません。過去におけるここへの無理解が大いなる敗戦を産んだことは、重要なる体験値として永劫に保持することでありますし、近未来の我々にも強く影響しつづけるでしょう。
話を食に戻します。食性からヒトを考えるときに一番に挙がる特徴が、「雑食性」であります。動物が草食・肉食と大別される中での中間とも言い、両刀とも言えるかもしれません。この雑食性は、類人猿ヒト科の進化存続を許す、重因子であった事を考えるとき、今更に取り上げる必要があります。いわゆる、地球上での食の争いを乗り越える為には、偏食では通らなかった実態なのです。動物の消化器が食性に応じた機能形態を持つように、ヒトの消化吸収排泄に関わる臓器もそこに適応進化して来ており、繊維もタンパク質もこなせる柔軟性を持っています。また、それを可能にさせた”火食”の登場は、ヒトを語る上では必須の認識と言えるでしょう。その意味で言えば、”逞しい”とも出来ると思います。消化吸収の逞しさは、当方が「内臓力」の定位を支える脚として捉えている、事象の一つになっています。現代は食物アレルギー等、まつわる問題は枚挙に暇はありませんが、逆を言えば、正に鍛える対象であり、「食育」の必要性が浮かび上がるのです。豊富な味覚は消化吸収もさることながら、味蕾刺激による豊かな感性の基盤も創造し、個人に宿る人間力に昇華することも捉えておかなくてはなりません。日本食が世界に注目される意味は、説明を要しない筈です。
また、雑食力を鍛えるにあたり、現代栄養学キーワードの”栄養満点定食”を意味するものではなく、”どんなものでも、どのタイミングでも”が骨子となります。特にスポーツ競技者などは、三大欲求をパフォーマンスと化す象徴である訳ですから、栄養素とカロリーコントロールの格子から解放し、徹底的に雑食本能を呼び覚まさせる意義が見出されることは自明です。パタン化は合理と同時に、脆弱を抱えることになるでしょうし、その不安定さの上には、強さも成立し得ません。
ヒトをヒトたらしめている”雑食力”を、やっと果たした飽食の世に問うのは、今です。