思考の枠組み 続

 前回は、極大視点から診た、水面下に潜む「枠」を書きましたので、今回は身近な「枠」を視てみようと思います。

 その枠こそは、国民一様に親しんでいる『国語・算数・理科・社会・体育・外国語・美術・家庭・技術』等に代表される、課目分類による学習・教育カリキュラムです。この課目群は、”学問は分類なり”の言葉通りに、ヒトの生存に関わる文明知の領域を一見のカテゴリー毎に分割運用する為に創られて来ています。いわゆる、合理的という名の下に疑うこともないでしょう。正に、学びの枠、であり、そのまま思考の枠、に変わり、世界を見る眼として初学時分には適切な働きをするかもしれません。

 しかし、この分割は学術背景もありながら、教授・教育・試験管理のしやすさを中心基準に編まれているので、ある線より先では、やはり足枷になりかねません。いや、事実なっています。ある線とは、基礎学習を越えて、研究・探求スタンスで現象解明に迫ろう、という心的構えの線であります。ヒトにまつわる現象は、言語/算術/身体/食/創作/関係 等が、各々単独で存在する訳もなく、全てが渾然一体としています。故に、それをせめて正確に拓こうとする視点や感性にも、渾然一体としたシナジー性を持つことの必要性は理解してもらえると思います。このことに関して、上記の課目枠による分割視点の刷り込みは、やはり足枷になるのです。

 一つの例を申せば、「算術・理系感性に身体性は重要な働きをする」との表現に見て取ることが出来ます。現代風に言い換えますと、”理系と体育会系は似た者同士” と云わんばかりで、とても正面からは捉えずらい話です。ですが、事の生物実態は、これを裏付けることになっていることを知るにつけ、『理系を志す者にとって、豊かな身体性を持つことは、有効な学びである』と言えて来る訳です。この時点で、常識を覆すような話になりますが、そういった常識観を創っているのが、課目分化思考なのです。少なくとも実態の解明から遠のくことは、自明であります。ここまで来ますと、課目に分かれた暗記受験学習の意味が、あらためて浮かび上がってくるでしょう。

 近年、人間の思考限界を補う主旨で、『学際』なる言葉が多く使われていますが、この意味することも上記のままであります。しかし、多人数で関わる学際研究も総括・統合が難しく、言葉ばかりが独り歩きしている様が殆どです。これを越えることは、人間界の知の発展には欠かせないことになるので、今一度しっかり捉えたいことなのです。

眼前のご自身の思考枠を打破するには、専門とする領域から完全脱出することに尽きます!その果てには、意味することが、肌で感じられる筈ですので、是非ともお試しください。決して後悔はさせませんので(^^)/

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