子供の身体能力を磨く視点❸:続本論
続きます。
過去?の歴史が示すように、国民身体に国家が介入した時代は、一見のシステムが施され、そこに依存することのみでありました。そう言う我々も、76年前までは同様であった訳です。この仕組みは共産主義国家(1917年ロシア革命~)で本格化され、労働者の思想統制に利用されて来た実態を創って来ています。では、一歩踏み込んだ、思想統制なる本質的意図とは一体何だったのでしょうか?それこそは、「宗教への恐れ」そのものであり、具体的には『キリスト教』の扱い方でありました。宗教・思想の力を身に染みて識っているが故、唯物論に反する認識であるが故、国民を宗教以外にエネルギーを注がせるべく、スポーツに走らせたことなのであります。そしてその国際的発表会が、”スパルタキアード”だったのです。通常は共産圏のトレーニング論理やシステム実態に興味が引かれることばかりですが、更なる欧州の思想的深みに注目してもらいますと、民族・国家を突き動かす本当の意味が見えてくると思います。
話を戻します。依存するシステム、論理など一切あてがわれない自由主義の中で、何に寄って子供の身心健全発達・延長線上のスポーツ達成力を演出するものか?今で言う、”身体リテラシー”がそこに充てようとする概念なのかもしれませんが、未だ力不足は否めないと感じていますし、教育機関自体も、懇切丁寧な身体教育を放棄したことを踏まえて、無視出来ない重要領域になっています。
しかし、そうは言ってもの2020東京五輪を終えて発覚した、現状の”スポーツ大国日本?”を視つつの、次代への提案です。
それは、前回ブログで書いた、人間機能の4層視点を包括した『ハンティング能力』(ハンティング:狩りの意)の言葉に集約させています。脊椎動物であり、万物の霊長でありながらも、動く、動こうとする唯一目的は変わらずハンティングであるからです。ハンティングの変化実態は、猛禽類の狩りから現代のAI戦争までをも意味しますが、身体を賭した狩りも、抽象言語/デジタルデータを駆使した戦争も、同軸で考えられます。故に、eスポーツはそこに嵌まることになるのでしょう。この動物に潜在的に宿る、ハンティング本能の賦活の基盤こそは身体そのものであることに疑いは生じえません。故に、ハンティング性を動物に学び、その動物との連続性を進化相に問うことは大事なポイントになるのです。蛇足になりますが、原始の類人猿の狩り行為には、既に抽象概念が必須であったことはご存知の通りであります。総じて、動物的身体動員✕抽象言語の自在運用=人間のハンティング能力 となります。このハンティング能力は、競技スポーツのゴールハンティング能力も、ビジネスにおける収益ハンティング能力も、当然に含まれることであります。
CAは、このハンティング能力の賦活を意図した、”身体と言語”両面からの介入を考えます。