剣道:kendo の行方
世界の武器術と、その歴史広し、と言えども、日本の剣道(∞剣術)のような文化として残ることは稀有です。その象徴たる「剣」は、神器として扱われ、武人の魂が乗り移る対象と化しています。故に、刀鍛冶が鉄を鍛える姿は、工人の代表存在とも言えるでしょう。日本刀の醸す”骨董価値”は、普遍です。この背景が、特に大陸からの仏教・道教と融合しながらも『武士道』に昇華??していったことは、承知の事と思います。
今回はその歴史を云うことではなく、剣道の種目可能性についてです。現今の国内では、多くは教育機関・警察を中心に継承実践され、国内大会の盛会を以てその威勢を維持していますし、”剣道日本””剣道時代”の2大雑誌が広報を担当しているようです。しかし、隣の柔道を視るにつけ、国際化を考えない訳もありません。事実、1970年国際剣道連盟(FIK:international kendo federation)設立以降、3年に一度の周期で世界剣道選手権大会が開催されており、競技成績は未だほぼ独壇場の模様です。当然に次なる目標は、オリンピックしかないでしょう。個人的には、その攻防・スピード感の魅力はとても見応えある種目と感じていますし、更なる国際化に足る要素を持つと考えます。
ここで、先達である柔道とフェンシングを視てみます。
柔道の場合
時代精神と、嘉納治五郎氏の努力が相俟って、1964年第1回東京五輪より種目採用。以降、国際化に伴い、ルール・ウェア(道着)の変遷は甚だしいが、一本柔道からポイント柔道への転換は、査定客観性に繋がり、現在の隆盛に貢献している。それにより、稽古法(トレーニング?)も大きな変化も余儀なくされたが、文化の継承と国際化による流布という課題は果たされている。
フェンシングの場合
欧州貴族の躾/嗜みとしての狩猟・乗馬・フェンシングという歴史のままに、騎士道の象徴が近代オリンピック種目に採用されている。1896年近代オリンピック創設のクーベルタン男爵の母国フランスが出自である。この特長は、機材の進歩と同調しながらも、分かりやすさ(電気信号による客観性保障)に集約されており、盤石の安定度を保持している。
近似する両者の共通する点は、お分かりの通り、評価の明確性確保であります。やはり人種・文化・国家の壁を越えて、身体ゲームとして拡がる為の現代的条件はここにある訳です。ではその視点で、日本剣道を考えた時に出て来る感想は、真逆の評価の分かりにくさ、ではないでしょうか。特に、『残心』といった行為・現象は、到底に分かり得ない感性と思います。確かに、武士道における剣術理であることは理解しますが、国際基準化にはどうしてもそぐわない点と言えるでしょう。そこにメスが入る暁には、更なる国際化・オリンピック採用の道も拓ける筈です。