スポーツ と 性
まつわる断罪が目に付く昨今、言わずにおれない衝動から書くことにしました。
日本社会に於いては、上記の意味するところ、水 と 油、健全 と 淫靡、といった好対照に位置することのようです。
そうなっている理由は様々に考えられますが、ここまで過度なる反応は歴史のなせる業であることには、違いないと想われます。
尾鰭を省いて開示するならば、克己的に競技生活に臨む者、と仏教の禁欲修行生活が、近似に扱われていることが起因する訳です。
しかもその社会認識は、重層的に固定されたものになっているので、無意識化されています。
故に、その断罪に非を唱える動きはほぼ皆無となり、個人が一身に責めを受けるというお決まりの決着に収まります。
このように言えば、お前は非を唱えるのか、と聞こえて来そうですが、この問題はそう容易い類のものではありません。
未来日本を考える時、少なくとも考えなくてはならない2つの争点が立ち現れることになります。
一つは、教育機関での性教育内容と方法、一つは、男女双方の生物的特性と能力発揮の関係性、であります。
このテーマは普遍性そのままのことなので、どの時代でも問われることです。
しかし、現代ほど情報開示が為され、表現の自由が保証され、飽食による生育速度と上限が引きあがっている中、旧態依然としたオールド教育では、あまりに逃げ腰でありましょう。
こそこそしたネット情報、そのうち分かる、という自得方式は、終焉時代の到来です。
ではどうするのか?
CAでは、特に2つ目の争点である、男女双方の生物的特性と能力発揮の関係性 についてお話します。
この視点から言えば、スポーツ と 性 は、重相関します。憚らずに表現すると、競技能力と性能力は一体である、と出来ます。
突っ込んだ生命の繁殖の掟を言えば、男性は無限/女性は限定、という決定的差異が存在し、この差異が男女差を創る最大原因になっています。
これらの事は、決して不確かな経験論ではなく、人類有史上、そして遺伝子特性上で確かに確認されているのです。
各々の具体的例示をすると、神社の巫女の由来は古代ギリシャ神話であり、都市国家防衛の戦士への神託と挺身がその役割でした。
戦う男の身心を癒し、心置きなく場に赴ける覚悟とエネルギーを生むのは、母なる大地としての女性の身体によってしかないのです。
現代の科学文明社会とは言いながらも、この動物性は絶対に拭い去られないものであります。
また、更に深い生物的事実を申しますと、手指の長さ/手指の把握能力/生殖器の長さ/生殖器の機能、が遺伝的に同義であることが分かって来ています。
時事を出してしまうならば、瀬戸大也選手の泳力を創る一つの重要因子は、この特性抜きには考えられない可能性は大きいと想われます。
この他にも、身体的シンメトリー性など、多くの素因は挙げられますが、中心に来ることは間違いありません。
日本的社会通念・常識・倫理などと一緒に出来ないことではありますが、現代における、ヒトの最高の動物的表現を期待しておきながら、修行僧のような禁欲生活をも付帯させる世相は、あまりに矛盾しているということに気付く必要は大きいと感じられています。
勿論、社会的限度や女性心情も十分に加味されることではありますが、動物の狩猟闘争本能がそこに宿ると明確に認識したとき、もっと寛容になるところなのです。