異口同音 2

コロナ禍下を無視したような話ですが、了解いただきたいと思います。

 『となりの芝生は青く見える』ことは事実です。その精神背景は、ヒトの持つ”嫉妬性”に起因すると想われます。しかし、我々から診る音楽業界の教育法は、嫉妬を越えた、またはそれとは違う羨望の的であります。そういう理由の一部は前回に書きましたが、今回は引き伸ばして行きます。文化・学術領域としてのレゾンデードルを確たるものとして構成するには、共通認識/専門用語/絶対基準/社会価値と効果性 が定義されることが求められます。その意味で言えば、音楽教育業界(特に西洋音楽)は、それらを十全に具備している訳で、客観性の高さを疑うこともありません。同じ目で身体教育業界を診たとき、その課題性は自明であります。動画でもお話していますが、未成熟さはせめて克服してゆきたいことですし、大いに真似をすべき時に来ているのです。「粗野」から「洗練」へ、今こそ舵を切らなくてはなりません。中でも取り上げたいのが、教育に当たっての絶対基準です。音楽界では、音律/音階/音符/ドレミ がそれに相当し、周波数科学を傘に盤石の信頼になっており、音の世界に入れば、猫も杓子も通ることになる登竜門です。全てはそこを基準に、運用 応用 表現 論議 訓練 研究 が為されるので、論理発達の道へ進みやすいということなのです。いわゆる、論理学でいうところの”存在”が共有されていることの強みとも出来ます。では、身体教育に於いては、何をどのように基準化することが出来るのか、または必要なのか?科学エビデンス以上に喫緊の課題になっています。身体心理学、認知論が盛り上がりつつある今、為されるべき大事な仕事です。

 学ぶ対象の性質から診て、音楽と運動は非常に近似した現象ではあるのですが、社会的には大きな隔たりを感じます。ここでご紹介したいのが、指揮者:岩城宏之さん です。この方は、小澤征爾さんの同級生で、同じく世界を股にかけて活躍されました。(2006年没)多くの興味深い著書を残されていますが、音楽界純粋培養ではなく、やや斜めから、そしてその深奥実態を語ってくれる感性は非常に素晴らしいと感じています。同時に、我々のテーマへも、大いなる指針を与えてくれるのです。以下に、最も印象に残る表現を書きます。

『音楽ひとすじ では、音楽家になれない』

『演奏家は、スポーツマン である』

 ここから、何をお感じになるでしょうか?是非とも皆さんとお話したいテーマです!

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