体育論

 現代教育の中で、非常に難しい論議になる筈のテーマでしょう。この憂き目に苛まれている最たる場は、正に文部科学省であり、付属機関のスポーツ庁です。四苦八苦状況は察するに余りあります。科目分化方式は今更でありますが、中でも「体育」は、その教科学習目的に始まり、教材選定からカリキュラム作成まで、本当に苦労するところだと感じられます。その挙句が、学校教育における”ダンス”教材の採用に現れていると思います。是非は申しませんが、正直、採用の意味・意義・目的・効果等をつまびらかに定位出来る方はいないでしょう。含めて、難しいということなのです。

 生物学的に言いますと、より良い身体状態を意図した行為、は人間特有のモノです。他の動物群は全て、いわゆる”本能”の範疇での動作/行動ですから、そこには意図性は存在しません。しかし、動物は特別な身体への刺激を取り入れることなどせずとも、緊急時の反応や動きには驚嘆させられることが多いのではないでしょうか。ただ、一部の例外として、競馬における”サラブレッド”調教と疾走力の変化、などはありますが、これも彼らにすれば、心底走りたくて走っている訳ではないでしょうし、学習効果も期待していません。馬の野性性は、”協力”ですから、相棒と選んだ対象の満足のために尽くす、という本能性が疾走行動に駆り立てているのが実態です。

 やや脱線になりますが、『馬』は人間を中心とした世界史を語るに際し、必須の存在であることをお伝えしたいと思います。コーチ COACH 馬車 なる語源発祥、ユーラシア大陸での必須動物、戦争の道具、オリンピック、貴族世界の慣習起源、トレーニング法の発想、遺伝学、等、あまりにも深すぎる関係性は、歴史認識を支える重要素となっています。一つ面白い診方をお話します。古代において、ヒトの生活に馬が加わったことによる最大の変化は何であったか?質問になってしまいますが、少し考えてみてください。答えは次回に致します。以前にブログで紹介した、本村凌二さんは、この辺りの著作を多く出されています。その第一歩は、「馬の世界史」講談社 です。

 話を戻します。人間から動物への変化(進化)は、その視点から診れば、本能性と意図性とのトレードオフと出来る、と考えます。意図は企図、そして投企に繋がりますから、dreamer humanity こそ、我々人間と動物群を分ける境界線という認識に返ります。昨今のキャッチフレーズたる、スポーツと夢、なる表現はそっくりそのままでしょう。では、体育における意図性をどこにどうやって設定するか?この事は、他の教科に比して最も時代性(宗教思想性含む)の影響を受けることになります。学術上の発想原点は、狼姉妹のアマラとカマラ、が最も有名であり、引用も多いです。そこから見えることは、2足立位姿勢さえも学習・教育対象であることであり、事の重大さが露呈しています。無理に時代性を言えば、野生・原始時代の 自然で生きる術 の習得から始まり、直立性確保と安定 上肢の自由度と巧緻性から道具への投企 そして、狩猟術 格闘術 も当然に含まれる訳です。機能的には左記にはなりますが、前提としての 人間が持つ時代の身体観 が全ての起因となることは事実です。

続 

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