知的欲求

コロナ禍下ではありますが、綴ります。

南方仁先生いわく、『神は乗り越えられる試練しか与えない』とおっしゃっています。この言葉、愚直に信じるだけです。

前回にご紹介した、カミユの名言「理論は感情の傾斜に過ぎない。」という一文。この意味するところ、もうお察しの方も多いと思いますが、当方なりの解釈をお話させていただきます。一見のエビデンス社会、科学性一途の世相を考えると、この文章の重要性は十分に盛り上がっていると想われます。まどろっこしい説明は抜きにして申しますと、”すべて人間の意識・感覚に上る思考体系や理論は、主観現象そのものである。故に、本質的な客観現象はありえない” との意味であろうと感じます。もっと砕くならば、”あなたがそのように思い、感じただけのことである” と出来ます。ここばかりを押し出してしまうと、科学性を否定することになりかねませんが、決してその意図ではありません。ただ、この事は、人間の知的営為全般に関わる最重要点であり、東西哲学の中核に坐する「認識論」の世界です。現代の研究でも、”認知現象の解明”は人間探求の的になっていますし、今までの壁を破るテーマであるのは間違いありません。ですから、同じ人間として、この文の意味を肌で感じてみたいと考えています。しかし、ここにどっぷり踏み込むと、脱出不能に陥ってしまうので、このくらいにしておきますが、今回書きたい、知的欲求、にも関係深いので、例示しました。

ある領域の専門家として、その世界での感性を引き上げる、磨く努力は日々になされていることですし、皆さんも望まれていることと思います。その意味で言えば、常に”知的欲求”と共に生きています。欲こそ人間、ここはマズローに任せておきます。こんな話は今更なのかもしれませんが、意外に磨く方法を誤っているケースが多く見受けられます。専門領域を修める訳ですから、そこに通ずるのは当然です。しかし、どうしても領域特化してしまう傾向があるのです。初学者なら分かりますが、相応の経験者ですらそこに留まってしまうのです。これも過度な偏差値教育、いや文部科学省の思考実態と言えてしまえると思います。この合理と見得る学び方が、目的とする”感性の引き上げ”に対し、実は逆効果を及ぼしかねないと知ったらどうなさいますか?秘めたる自身の能力開発を足止めしているとしたら、黙ってはいられない筈です。また、その深める対象が”有機体人間”と来たならば、話は更に重篤になります。いわゆる、偏狭になりかねません。その場に於いて、せめて自説を振り、世に問う事を、磨きのゴール、に据えたとき、どのような現象へ向かって感情が傾斜するのか、出来るのか。自身の感性を少し俯瞰していただきたいと思います。

そこでの提案が、”専門から出る”という行為に他なりません。平たく申せば、専門家としての感性を飛躍させる近道、ということになります。急がば回れ、を実地に取り入れることなのです。自身の専門眼とは違う視点をより多く持つこと、その結果、一対一だったものが、一対多に変化し、専門対象がより立体的に浮かび上がるかもしれません。当然に、以前とは違った力を発揮することになるでしょう。間違いなく、知的欲求は満足されると想われます。こういった提案は、世に様々ある能力開発法を診尽した上での結論、といえば伝わるエネルギーも上昇するかもしれません。最近の流行で、メンタルローテーションなるものがありますが、我々が申し上げるのは付け焼刃的テクニックではなく、本質での感性転換術、と言えます。自身の感情傾斜の変化を楽しむ、といった意識になったとき、カミユの一文が肌で感じられるのではないでしょうか? こういった変化・進歩のプロセスを皆さんと楽しみたいと考えています。

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