共産主義とスポーツ
50歳以上の業界人は、反応する言葉かもしれません。日本の戦後復興の起爆剤として行われた、1964年第1回東京五輪以前より、共産主義国家に学ぶ体育/スポーツ施策と、その論理・方法 といった風潮は、学術界を筆頭に盛んでありました。このことは、思想の枠組みを越え、純粋に「富国強兵と青少年教育」への努力だった訳です。正に、猪飼道夫先生の体力医学の勃興期でした。事実その勢いは、今に繋がる我々日本人のスポーツ・身体文化観を創って来ています。特に、トレーニング科学なる新規の場などは、そこへの依存・傾斜度は非常に大きく、唯一の手蔓でありました。編成された論理構成は、一見の教科書/常識??として教育されて来ており、自身も列中におります。対して、当の共産国家群は、独自の民族思想にマルクス・エンゲルスの云う唯物論を被せ、思想・社会システムの成果象徴として、国民スポーツ身体を運用しつづける歴史を進みました。そこに於けるキーワードこそは、管理・統制・計画・労働・防衛・弁証法・変化であり、施策としてのGTO(ソ連邦の労働と防衛に備えて)とスパルタキアードと言えるでしょう。そこに紐づく、冷戦と疑似戦争のオリンピック史は、今更申すまでもないと思います。
ここで書きたいことの一つ目は、人類の働きは全て、水面下を流れる思想の影響を受けて進む、という実態です。故に、その流れの表面に浮いている文化・現象だけを取り上げては、実を見紛ってしまうのです。テーマに合わせると、スポーツ文化・方法・論理を輸入しようとする時、対象の底辺に巣喰う民族思想も同時に視たい、ということです。共産主義スポーツに注目するならば、その場に重なる歴史性も同様に実感したい、のです。この観点を持つとき、提出される論理・方法の解釈も大きく変わります。
上記を受けた二つ目は、以下の文章の紹介に乗せたいと思います。
二十世紀は、後世の歴史家が書くとすれば、
共産主義という善意あふれる思想の実験に、
まるまる百年を費やした世紀であった、となるのではないかと思う。
そして最後は、赤い花の奪い合いで終わった、と。
『再び男たちへ』塩野七生 ★2000年イタリア文化勲章受章
もしこの文章を記憶されている方がいれば、是非ともお話させていただきたいと思います。塩野七生さんの視点は、正に世界標準であり、地中海ギリシャ・ローマ世界に始まり、欧州の思想・歴史・地理を最高度で達観した後の挙句なのであります。その視点が、共産主義に対して”善意あふれる思想実験”という結論を付けています。言えますことは、唯物論で構成した人間社会システムは、全て不適であることなのです。さあ、我々もこの視点をいただき、あらためてこの共産主義の100年と近代スポーツ、トレーニング科学を見直す時代が来ています。