見切り三寸 修羅一寸

 旧来の武人修行において目指された、術理の精度を云う表現であります。

 現代仕様で翻訳すれば、「練習で得られる定位性の上限は、9cm。本番で求められる生死の境は、3cm。」で大きく外れないと想われます。同時に、伝えたい核は、生死を賭する状況の厳しさに集約されるでしょう。戦後以降は、完全に芸者剣法化(=スポーツ化)し、このレベルの感性は消失させられた訳ですが、あらためて復古させるならば、以下のことが診えて来ます。

柔術と耳

 ”柔道家と耳の腫れ”は、あたかもの勲章・象徴のような見方がされています。故に、大きく丸く変形した耳を見せられるにつけ、良く稽古している模範的取組像をかもしているのです。ではここで、戦前(昭和16年以前で、大正/明治/江戸末期くらいの枠)の時代に眼を遣って見ましょう。そこは正に、旧来柔術-講道館柔道/寸止め剣術(千葉周作剣道前身)/沖縄唐手/勧進相撲 等がその存続と文化伝承を意図して、また、国策強兵術への採用を巡って、散在跋扈の様相でありました。こういった文化残光は、今に多く残っていますが、一つ大きく違うところがあります。それは、上記する柔術実践者の耳なのです。どう違うかと申せば、腫れていないのです。この事は、稽古の過酷さ、ルール規制以前、道具・環境の不備 等を考え合わせると、矛盾しか感じさせません。では、ここにある実相は何なのでありましょうか?実は、これを説明するものこそが、問われる定位精度としての「修羅一寸」であり、教授訓練法の違いと言えます。そこでは、粗野に側頭部を打ちつけ、擦るようなことを良しとせず、それに代わるある身体部位の効果的運用を是として熟達して行きました。その部位は、経験則で見出された筈ではありますが、現在の進化生物学の視点から診ても、的中しています。自身の師、師の師(起倒流柔術当主/講道館三船久蔵氏と同根)らの実態を魅せられるにつけ、正に納得の一言であり、スポーツと武道、遊びと戦闘、パフォーマンスと殺し合い  の状況差が創る動作精度差が耳に出るという事実に、嘆じているのです。この視点をそのまま剣の世界に適用するならば、「寸止め」という感性に現れることはお分かりと思います。

空手と拳ダコ

 柔術/柔道の耳変形と同様に診られる、空手/唐手の拳変形(:拳ダコ)はどう診えるでしょうか?やはり、カラテカの勲章は、潰れた拳頭にこそ、といったイメージは拭えない側面とも感じられます。しかし実態は、自傷行為であり、腱の摩滅と周辺組織の補償肥大以外の何者でもありません。事実、拳を壊して継続不能といったケースも少なくないことは、柔道の耳と同じ解釈をせざるを得ません。ここに於いても、拳先精度が生む接触部周辺組織の微妙なズレの反復が起因することを考えますと、「修羅一寸」とは真逆の現象と捉えることになります。

 近代スポーツパフォーマンス花盛りの現代、コントロール/精度/定位・平衡性 等、一見のトレーニング科学で扱おうとする感性世界に関しても、古来旧来の秀逸なる文化財を掘り起こす意味は、今こそ引き上がっているのです。少なくとも、2020東京五輪女子柔道78㎏級チャンピオン:濱田尚里選手(自衛隊体育学校)は、寝技を主戦場としながらも、耳は腫れていません・・・・

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