トレーニング論 5つの視点❸

❸ 映画『ロッキーⅣ』に何を診る?

 この映画は、その意味でテーマに挙げられることの多い対象です。今回は、その轍を踏みながらも、違った視点を示したいと思います。

 まずは内容以前の映画論になりますが、その資料的な有効性についてです。一見、娯楽の象徴としてのみ扱われそうな分野ではありますが、それは大いなる誤解と言えるでしょう。勿論、面白さが優先されることは当然ですが、やや深読みしつつ、角度を変えながら作者意図や時代・思想の描写を捉えてみると、「あら不思議!」。全くに違った観方、感じ方が立ち現れて来ます。総じて言えば、”どう観るか、どう診えるか?”に集約されることではあります。文章資料による創造とは差のある立体的実感は、映画特有の訴える力の実証であります。現在も続く、為政者のプロパガンダに於いて、相変わらずの位置を占めていることも頷けます。その意味で、映画の世界を見直す切欠になるかもしれません。

 ロッキーⅣの内容に入ります。どう診ても、冷戦時代の米国側(NATO/北大西洋条約機構)とソビエト連邦側(ワルシャワ条約機構)の軋轢を、ボクサーの試合に表象した作品であります。その想定と、スタローンの粘り強い闘争性やヒューマンドラマだけでも、十分に楽しめる作品なのですが、当然にそこでは終わりません。作者自身、少なくとももう一つの裏テーマを掲げています。それは、英国の産業革命を起点とした近代オチデントの『量』文明と、悠久の文化母体である歴史的オリエントの『質』文化との交流、そのものと出来ます。一般的表現であれば、東西論ということになるでしょう。実質的には、量も質も必要なる観念ですから単純な甲乙は有り得ませんが、作者はそこで東洋:質文化に軍配を上げています。東洋人としては正直嬉しい限りでありますし、現象の実態把握は質感有意であると宣言しているようにも感じられます。このことが、映画を越えて実社会の、しかも奇しくもスポーツ界に現れた例があります。ご存知の通り、「東洋の魔女」がそれです。その構図は、近代西洋の分類生理学と”回転レシーブ”の交流であった訳で、同じく軍配は東洋に上がっています。

 まとめますと、身体論に於いての過度なる量認識は、本質誤認に繋がることと、そこへの警鐘、と捉えられる筈です。正に、時代の知性を先取りしたような問題提起と、結論提示だと感じています。このことは、スポーツのトレーニング論議では、これからの中核テーマになってくるのです。

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