知的欲求 3

 このテーマ、続けます。ITに代表される技術が、人間社会を席巻するにつれ、この欲求を満足させることは、益々に難しくなっているように感じます。その心は、AI自動検索機能による一対一認識の習慣化 や 自動車のナビゲーションシステム 等、右往左往しなくて済む生き方にあります。これが学校入学試験になると、一問一答式 マークシート方式 になっていることはお分かりと思います。便利さや一見の合理?性、そして安寧さは、全ての味方とするならば、戻らない流れであることでありましょう。こういった動静も、フロイトのリビドーに起因すると言えるかもしれません。

 しかし過度依存に浴してしまうと、大事なヒトのヒトらしい能力までも、失いかねない状況にあると強く感じています。逆に言えば、失われた性質・機能は、無い物として閉じつつも、そこに適応/可塑/学習するのがヒトとも出来るので、近未来へ向けて果たしてどういう人間へ進んで?(退化?)ゆくのか、予想は難しいと思います。

 この世相の中、知的欲求なる現象もこの憂き目に会っているのです。ヒトの感性動態は、拡大と収縮を繰り返しながら醸成されるという話は前回に書きましたが、ポイントは、その拡大(深化含む)にあるように感じられます。最近の思考法ブームでは、抽象化 と表現されていることに重なるのですが、この部分が現代の学習法に於いて欠けていると言えるでしょう。その象徴が、メソッド ノウハウ のみに傾倒し、しかも暗記して良しとする、学び方です。これでは、感性の運動が生じないばかりか、要が済めば即忘却ということになってしまいます。学校教育での例を挙げれば、兵庫県神戸市にある名門灘高校の国語教師であった、橋本武先生の教育法は、現代の欠点に対して、真逆の成果実証です。橋本先生の考え方や方法に関する書籍は多く出されているので、一冊手に取って見るべきものとして紹介しておきます。このように書いてくると、もう自明ではありますが、知的欲求の充足・満足は、一見の既定路線から外れることから始まる訳です。知的冒険なる言葉が、最も適していると今更のように感じます。

 しかし、問題はここからです。知の海で航海すればするほど、航海日誌を重ねれば重ねるほど、津々浦々に上陸すればするほど、大海の大きさや、海溝の深さを身に染みて感じることになります。その位置は、徐々に拡大し、地球の地軸と3軸回転認識に至るのは常道と想われます。実際に海に生きる方々には、よりリアルに感じられるかもしれません。池上六朗さんの『三軸修正法』などは、この感慨を元にした発想であります。

 そういった状況に投入した人間感性の挙句は、「結局、何も知らない、分からないのだ、、、。」「我が存在のなんとチッポケなものか、、、。」といった言葉に集約される傾向に進みます。いわゆる、実は何も分かっていないことを知る、というパラドクスに陥るのです。そういう私も、程度の高低はあれ、そのような心情に陥った経験があり、未だに戻って来れていないのです。湧き上がる想いはただ一つ、虚無感 です。

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