知的欲求 2

 このテーマを書くのは、2度目になります。自身も、この欲に苛まれて生きる者の端くれ、であり、没入して12年が経過します。前回は、「感情傾斜を楽しむ」との主旨での内容でした。人間一般、個人的経験の双方からして、この状態に浴することが、最もこの欲求を満足させられる場所なのかもしれません。少なからず、IQ論はさておき、脳と学習性を備えてこの世に存在するからには、その機能をなるべく多く使って見たいと思うのが、人間の性でありましょう。潜在能力開発とは、何かオカルトちっくな偽科学や機材の世界ではなく、正に”此処に有る”実態なのだとも感じられます。故に、当たる言葉は、『どう使うか!』の一言であります。その認識に立ったとき、不思議と自己の拡大感が得られるのが”言葉の力”の表出です。旧い有名な一節に、「見たい、知りたい、分かりたい」というものがあります。言わずと知れた、イタリアルネサンスの精神でありますが、古典に返り、出自を知り、認識新たに再生する、という時代精神の吐露でありました。現代欧州を識る史的転換点であると同時に、古代ギリシャにおける知的爆発の唯一性の再確認ともなっています。ちなみに、そこに双璧として立つのは、中華思想であります。そういった時代精神を診るにつけ、knowledge  information  interdisciplinary といった最もらしい横文字が乱舞する現今にも、ネオルネサンスの必要性を強く感じています。

 その気運は、テーマである知的欲求によるエネルギーが創ります。そのエネルギーは、自身の興味関心の矛先から始まり、次第に周辺関連領域へ拡大してゆきます。拡大は一辺倒ではなく、収縮を挟みながらリズムを持ちながら動き続けます。この運動はいわゆる自然現象でありますので、あたかも”粘菌”や”植物の根”の動態に似ているように感じられます。実際に植物学者は、「根は脳である」と表現している内容を散見します。しかし、植物や菌のそういった運動は、生存への志向性に支えられており、方向性や限界性は具備されたものでありますので、目的が果たされれば一応の収束を迎えます。では人間の知的運動の場合はどうか?1テーマへ向けた研究、であるならば同様でありましょうが、そうでない場合には収束知らずということになります。一つの視点が3つを呼び、3つの視点が5つを呼び、といった具合に、際限のない海へ漂うことになって行きます。時折、無人島を発見し上陸したとしても、数日の休みの後、再び次なる大海に指針を合わせるでしょう。探求人生の様相は、概してそのようなものになる筈です。

 ここで申し上げたいことは、知の大海を進むことは、独自の海図を得ることに繋がり、その知的充足度は間違いなく大きなものになりますし、同時に発生してしまう”鋭い洞察性”は強みにもなります。しかし、そこに生ずる矛盾もある訳です。矛盾の実態、それこそ『虚無感:ニヒル』に他ならないのです。

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