『律動性』に想う Ⅱ

 前回に、「果たして、メトロノームを用いたトレーニングで演奏家のリズム感が改善されうるか?」とのテーマを提示しました。提示するからには、答えがあるのだろうと思われたかもしれません。しかし実際、”不明”がその答えであります。賛否両論はもちろんですが、絶対的とは言い難いと思われます。同様に、音への適性を現わす指標として、「絶対音感」が知られていますが、これも絶対とは言い切れない面も多く指摘されています。その理由は、音も言語に似たところがあり、「筆舌に尽くしがたい」との表現のとおり、有効性と同時に限界性も持っているということであります。人為的、機械的に抽出した構造は、事実漏れも多く、その漏れに有機体人間の本質がある訳です。個人的には、世の”ユーロビート”が、異様に機械的に感じられるのですが、恐らくそういったことが無自覚に起因しているのでしょう。この機械音楽の真逆にあり、そして想像を越えた自然的”リズム性”を見せてくれるのが、アフリカ音楽です。このブラックミュージック、そしてその身体性表現者の黒人スポーツ競技者の研究は、端緒についたばかりです。

 この原点は、西洋音楽に遡ります。ここでは、自然界の「音」を音階:周波数に分け、音符による”間”の構成を記譜に残すことが主たる方法になっています。その記譜を元に、楽器/声楽/指揮が異口同音に奏でるのは、今更だと思います。ダンサーは、そこに身体を投入して行きます。いわゆる混在したものを分解し、それを人間の人為的意図のもとに、要素還元的に再合成するという、科学性の特徴がここにも現れます。現代の音響学は、周波数:㎐を頼りに様々な機器開発をしていますが、全て通底する世界です。

 少し古いことを言えば、日本の明治期における西洋音楽黎明期の代表的音楽家”滝廉太郎がいます。彼は音楽史に巨大な業績を残していますが、元来”記譜”などない日本の音に、音符という規則性を導入し、見事にその心情を表現しえたことは驚くばかりです。名曲「荒城の月」などは、その真骨頂とも言えるのではないでしょうか。その系譜は、山田耕作 西條八十 古関裕而 古賀政男 と連なってきます。古い曲を聴いていただければそのまま納得なのですが、この系譜には滝廉太郎イズムが息づいています。特に、古賀メロディー:演歌などは、読経を原点とする声明に西洋の音符を付した典型的なものです。日本人の独特な心情を歌うには、最適だったと言えるでしょう。この音の世界に身体律動性をを入れたのが、山耕作と玉置真吉でありました。それは今に残る、リトミックとソシアルダンスの世界です。そして、リトミックと来れば、エアロビクスへという流れが透けて見えてきます。

 少し先走りますが、この空間振動現象への目は、ミクロへの入口になっており、量子論の世界で扱われています。この物理学一辺倒で言われやすいことと、生体や意識性との関係はこれから解明されてゆく大きな領域と言えるでしょう。ヒトの、視覚 聴覚 臭覚 皮膚覚 が捉える現象特性は、全て周波数の違いが差異を創っています。

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