『律動性』に想う
律動などと言えば、いかめしく分かりづらいかもしれません。一般的には、リズムで総称されるあの現象です。あの現象に何を想像するのか、皆さんそれぞれだと思いますが、ヒトの運動/行動/行為における振幅性を充てることが多いと想われます。確かに我々人間が生きる上で、その表象が即に実感出来る、目の前のことゆえなのでしょう。近年でも、ダンスブームに乗りながら、あらためて取り上げられるようになった”リズム感”のそれ、です。個人に宿るリズム感が、様々な運動成果に大きく影響する、との認識がそれを抽出する意味になっています。
しかし、一見に分かったように扱われている律動性も、蓋を開ければ未解明の中心に来るようなテーマであり、安易な単離注入が効くものなのかすら、自信を持って言い切れません。
故に、この枠組みを取り外してみたいと思います。すると、その実態は生命、いや宇宙すら包摂する真理性に繋がって来ます。皆さんも、眼を拡大していただき、天体の自転や公転、または恒星の創る系、を思い起こしてください。根源機序は、回転と、その回転が生み出す向心力(重力)にあり、稀有に生まれうる生命現象の母です。地球レベルでは、春夏秋冬 東西南北 という時空基準を与えています。少なくとも、回転には規則性があり、その規則性のなかに生き、活かされ、翻弄される我々であります。
もうお分かりと思いますが、この規則性こそ言い換えた律動性に他なりません。寄せては返す、波打ち際は象徴と言えるでしょう。極大に申せば、生かすエネルギー此処に有り、と成ります。ヒトの場合(動物も含まれる)、地球の律動性の体現をホルモン代謝が引き受け、最終的に生理生化学の世界に現わされるのです。女性の月経は、その如実さと生々しさ、そのままだと言えます。当たり前のこととは言え、そのマトリョーシカのような入子構造に、今更ながら感動してしまう昨今です。
元来、この規則性の深奥を捉えることは、世の覇権を握る重因子として扱われており、真骨頂の『易』は、その最たる英知でした。中華の群雄割拠、春秋戦国時代に諸子百家が求められたことも、十分に肯けます。手前味噌になりますが、我々CAが、易ー道教ー仏教と体術を中核に据えようとする意図もここにあります。話の飛躍から、再び足元に戻れば、人体の心臓鼓動、筋の収縮弛緩、吸気呼気、臓器の蠕動等、あらゆるものが律動性の中に存在する訳です。そうであれば、体壁の動き すらもそこに従うのは自明でありましょうし、法則に敵えば成果も上々となります。実は、そこに問題が立ち現れます。自然発生の律動性に、外部からの人為介入によって接近することは可能であろうか?という問いであります。体壁系のターミナルは脳ですから、脳の学習性に訴えて”有”とするのが主流思考になっていますが、エビデンスはありません。この事への素朴な疑問が、音楽界から出されています。それは、「果たして、メトロノームを用いたトレーニングで演奏家のリズム感が改善されうるか?」です。一見の常識を覆す、良いテーマだと感じています。
続