体育とスポーツ
日本体育協会から、日本スポーツ協会への名称変更をどう考えるか?
世間ではさほどに問題視されることなく、一見ごく自然に上塗りされた感があります。確かにこの変更をしたところで、為す事が大きく変わる訳でもないでしょう。歴史の力、と言われてしまえば抗いようもありません。しかし、ある診方からすると非常に重大な変曲点になっています。それは、言語の消失と同時に、”からだ育て” という概念が加速度的に薄らいでゆくことの始まり、と感じられます。実質的には、その機能的役割が近代スポーツに完全に預けられたのです。体育という単語が唯一残されるのは、学校教科内のみになったことになりますが、ひょっとしたらその牙城も崩れるやもしれません。そういうからには、私自身、体育の残存を心から願う位置にいます。
漢字と横文字ですから、一概に意味比較を並べることは難しいですが、元来の内容は似て非なるものであります。「体育」を解字意訳しますと、「肉付きよく健康に産まれ、四肢骨格がきれいに並んでいるさま」となるのに対して、「スポーツ:sports」は、「余暇 遊び」となりますから、全くに違ったことを示す言葉だということがお分かりだと思います。その面から診ても、体育の果たすべき重責を、スポーツで代行させることは不可能に近いでしょうし、当然に内容も変わらざるを得ないのです。少なくとも、スポーツ活動は体育の一手段というのが、実態の筈ですから、キャパシティーオーバーになります。
こういった潮流は体育スポーツ問題に関わらず、社会全般の傾向を写していることも事実です。世は、合理性 科学性 コスパ エビデンス ノウハウ メソッドと言った言葉に溢れ、即物感満載の模様を呈しています。それは太極に於ける、いわゆる”陽”の事ですから、そこを水面下で支える”陰”の事に眼を配る志向性は生まれにくいのが人情でしょう。業界での兆候は、原論 哲学 歴史といった分野が、バイオメカニクスに席巻されて来た足跡が物語っています。現実的には、単純にお金に成らないから、ということなのですが、異、体育という属性から言えば、最重要視されるべき領域が逆に軽視される物語の始原となる訳です。妙といえば妙なお話です。やや拡大解釈させてもらって、”身体教育”とした場合、有機体 哺乳類 ヒト科 人間 の全き生き方に対し、何を授け、どう導けばより良いと考えるでしょうか?この問いに対し、まっとうに答えてみようとした時、せめてもの依るすべはどんなことでしょうか?事の陰を診ずして、捉えることは困難ではないかと思います。そういった思想的土壌に ”身体知” なる抽象造語の登場では、違和感ばかりがもたげて来ます。
ここでそこを深堀することはしませんが、ヒントは以下に記載させていただきます。是非に参考になさってください。
スポーツ起源の解明をしようとするための視点群
ギリシャ神話と古代オリンピック
ローマ世界(ガリア戦記/パンとサーカス/闘牛)
ゲルマンとノルマン
十字軍とルネサンス
宗教改革
産業革命
普仏戦争とクーベルタン
といった欧州史に向き合うことになります。