スポーツ文化の過去と未来

 IOC会長バッハ氏の発言とは裏腹に、政治(質)・経済(量)指標としての現代スポーツのレゾンデートルは盤石です。より直接的に言えば、民族文明度のアピール手段の象徴と視えていますし、メダル獲得数などは冷戦時代の疑似戦争を色濃く残しています。この、クーベルタン男爵もビックリの肥大化は、ビジネス化/パフォーマンス化の波と同時に、為政者にとって『パンとサーカス』の役割も果たしていることは承知しておきたいところであります。サーカスとの風刺は、古代ローマ詩人:ユウェナリスの表現ですが、古代認識が2000年を経た現代でも通用することは、正に”日の下に新しきものなし”という言葉を思い起こさせます。こういった国家民族レベルでのスポーツ文化の意味を最上段に掲げながらも、足元では人類総出の運動不足時代におけるヘルスフィットネス法、リフレッシュ術、リハビリプログラムでの効果が共通価値を支えています。このことは、他の動物にはないヒト科特有の自由度と学習性に依拠することであり、人生の面白さを演出する大事な部分でありましょう。近年の科学は、その効果性を脳に振り向けており、「認知機能の改善」がそのキーワードになっています。以降、この側面からの学際研究成果は更に注目されるでしょう。総じて、スポーツ活動の生物的意味が唯一残り続ける理由となることは間違いありません。

 ここで見逃せないのは、”教育価値”です。ここのあぶり出しには、スポーツと体操/スポーツと体育/国民国家と教育、くらいの視点で取り囲む必要性がありますが、そこの深掘りはこの場では荷重ですので、表層だけ観察したいと思います。再びユウェナリスの表現を借ります。「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」との有名な言葉は周知と思いますし、一見の体育・スポーツの健全性を云う根拠とされています。しかし実態は、この真逆であり、当時のローマ世相は”立派な肉体をしているのに、どうしてその精神はそんなに残虐なのか”と想わせるほどのものだったようです。コロッセオを舞台としたシーンは、多くの映画作品で想像するばかりですが、 ユウェナリス自身もただ願望として風刺したことでありました。故に他のことも含めて考えて、体育スポーツの教育価値は疑わしい、との見方は反対し切れないのです。文部科学省が最も及び腰である心情、透け透けであります。せめて切り拓く認識は、『身体知』なる言葉にかかっているのです

AI時代の身体文化、逐一追跡したいと考えています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

thirteen + 18 =