思考の枠組み

 自身の感性・知性を磨こう、と望む(臨むも可)ときに、最も重篤にのしかかるテーマです。それは、抵抗器にも加速器にも換わる変幻自在なものでありますが、何せ、平素その姿を見せようとはしません。故に、実態はなかなか掴めないものであります。そのくせ、影響力は非常に大きく、正に無意識野を占拠する力を持っています。より砕いて言えば、「物事をどう感じ、如何に考えるか」と問われたときの反応は、殆どがある仕込まれた枠組みを出ることはない、との意味になります。この無自覚に沁み込んでいる枠組みは、加速器として働けば成長と発展に、抵抗器として働けば停滞と退化に、導きます。このように書けば、異口同音に加速器たることを考えます。しかし多くの場合、悪気はなくも足を引っ張られることになっており、自由な感性発揮や創造的な知性表現、には抵抗になるのです。こういった、言語作用を媒介した人間世界の現象は、『思想のちから』に集約されます

 思想は、我々を突き動かす最も強いエネルギーとして、この瞬間も水面下で作用し続けているのです。因みにその一端を言いますと、我々日本人が持たされた”世界史観”があります。それは、古代ローマと縁付くと自称する大英帝国(現イギリス)を中心とした世界観と、疑いもしない英語教育が最たるものです。教育現場においては、高校世界史教育により具体的に醸成され、当然に、西洋知の独壇場を創って来ています。歴史など診方ひとつ、ですから、どのようにも解釈できる訳ですが、少なくとも3000年に渡るユーラシア大陸での趨勢を視た場合、オリエント世界を中心とした世界史が提出されていないことは大いなる欠損と言えるでしょう。イスラエル世界の視点から、『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ著 が出されるのも納得の一言です。

 その二端に来るのは、西洋知の近代三哲(マルクス/ダーウィン/フロイト)に他なりません。その浸透度と影響度を正確に見積もることは不可能ですが、学術世界含め、あらゆる人間世界の思考基準とされています。我々日本人が何気なく使ってしまう「トラウマ」なる表現も、全てはフロイト精神分析に端を発していることなどを視ても、凄まじい限りです。そして、この三哲の知的系譜を探るに、ローマのルネサンスと起源であるギリシャ神話に帰順するのです。そこには流れ・浸透・影響、そしてそれらが創る歴史性しか見あたりません。本当に身震いさせられます。

 実際に巻き込まれている最も大きい枠組みを書きましたが、以外にも大同小異の枠に所属していることには違いありません。この現実を、あらためて自身の職掌や思考性に照らして視てください。必ずや、感性・知性の可能性に対し、抵抗/負荷/足枷/拘束となっているものが診えて来る筈です。診えれば即、その枠は解消され、新しい視点や方向が創発します。

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