パフォーマンス 〇〇〇 に想う

 日本国民にとってのスポーツ文化も、富国強兵のプロパガンダ模倣、教育という隠れ蓑、を経て、ようやく芸道領域でのレゾンデートルを得たようです。この位置こそ、最も適切な場であると感じているのは私だけでしょうか。それは、1964年第一回東京オリンピック ➡ 2020年第二回東京オリンピックに至る半世紀、日本体育協会の日本スポーツ協会への改名、スポーツ庁の創設、等を診るにつけ、盤石なものとなっています。少なからず、「体育」との決別は疑いようもありません。この芸道化一路に際し、それを引き受ける側の動静について想うところを書きます。

 日本の文化性は、排外と拝外/模倣と昇華といった表現が唯一相応しいのですが、スポーツなどは最たるものです。国土に埋蔵する”金”の海外流出を防ぐための鎖国を解いた明治以降、正に拝外姿勢一本槍で進んで来ています。日本海という大いなる障壁に囲まれた、極東の島国の越えられない性、と言ってしまえば済むのかもしれませんが、ITや航空機、人種の混交によるクロスボーダー時代とは裏腹に、根強い固着観念は全くに拭えていません。また、これに輪を掛けた”敗戦”体験の影響は、まだまだ続くことであります。

 身体文化における拝外は、欧米列強(一部北欧) ~ 米国/共産国家(特にソ連)~ 新米国 = 英・仏・独・ソ・米・端典 ∞ 明治ー大正ー昭和ー平成ー令和 の流れのままに進んで来ています。この流れは当初、和洋折衷の様でありましたが、太平洋戦争敗戦後に至っては、和がことごとく排斥され、米国とソ連の追従に大きく転換させられて?います。第一回東京オリンピックは、その一大契機であったこと、今一度思い返したいところです。当時、飛ぶ鳥落とす勢いのCCCPの実態を移入すべくなされた、多大な苦労足跡は生き字引として眺めることが出来ます。しかし、その東京オリンピックの女子バレーボール競技において、我が日本国代表「東洋の魔女」が勝ちの成果を収めている事実をどのように捉えるのか、今更に議論したいテーマとなっています。また嘘でも付加されていた”青少年教育”との文言ではありましたが、今となっては風前の灯火です

 以後、冷戦∞宇宙開発と歩調を合わせるように、”フィットネス”の登場に繋がります。そのフィットネスが、現今に流布する”パフォーマンス”の系譜と視て間違いないでしょう。和製英語と化したパフォーマンスは、もちろん米国由来ですし、そこへの拝外姿勢そのまま丸出しであります。この言葉が市民権を得る思想背景は、スポーツ文化が芸で身を売る領域への突入する事、を意味しており、是非論を越えて、最良の収まり処と想われます。ここで、いくつかの私見を羅列します。

➊ 文化拝外という視点を持つこと

❷ 追従しようとする米国を建国精神から押さえること

❸ 芸道文化の先達に大いに学ぶこと

 スポーツ文化がパフォーマンスを標榜するに当たり、この辺りを入門儀礼として把握することは、試験に等しいことであります。せめて業界人総出で儀礼を果たしませんか?

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