ドイツが、ラグビー種目をやらない理由(@_@)

 一見のラグビーブームの最中誰しもが抱く疑問なのかもしれません。

 ブンデスリーグは様々に盛んであり、サッカーなどは多くの日本人競技者の海外登竜門と化しています。ラグビー種目自体、FIFA程の組織力や国際的な拡がりはないものの、隣国で歴史上関係の深い英国・仏国・伊国(※欧州主要国)らの熱っぽい取り組みや、ワールドカップも行われる認知度を脇目にしながらも、頑なに注ごうとしない理由は間違いなく存在する筈です。この視点、国内でも多少取り上げられて来ているようですが、納得レベルでの論調は見当たらないゆえ、CAなりの内容を書いてみようと思います。

 この事は、現代社会の小さな表層現象と想われますが、その解明に本気で対峙しようとするならば、欧州を中心とした世界史を大に小に紐解く必要に駆られることになります。地歩は、「スポーツとは何か?」から入らなくてはなりませんが、このブログでは任が重過ぎるので、いくつかのポイントに照射することにさせていただきます。

➊ フットボールの由来

 サッカー以前のフットボール(蹴球:手も足も使う遊戯)の歴史的出現は、中華における前漢時代BC141年~(武帝統治期)の”霍去病”にまで遡ります。霍去病は中国史の中でも名将でありますが、彼はこの遊戯を”兵の基礎訓練”として活用していたようです。これは、司馬遷の「史記」に残っている記録ですので、正面から捉えられるものと解釈しています。今も残る多くの身体文化が、中華をルーツとしていますが、蹴球もここに出自を固めて良いと考えます。その遊戯文化は、正にシルクロードを経由し、ペルシャで吟味されたのち、地中海/ガリア世界に拡がっていったのです。種目としての「ポロ」などの伝達様相は、酷似しているものと思われます。欧州発祥のもの(体操、フェンシング、自転車、レスリング等)以外では、最も古いので、為政者の制約も少なく民衆レベルまで、かつ、津々浦々まで染み渡ったことと推察されます。そのことは、欧州圏全域での取り組みが実証するところです。この人類普遍文化が、英国の貴族教育と産業革命に会った時に「近代スポーツフットボール」として、遊びを越えた位置に引き上がって来ました。いわゆる、ジェントルマンの教材であり、労働者の余暇であり、軍人の訓練であり、と言った機能があてがわれてたことが、現代サッカーに繋がる重因子と考えています。

❷ 西暦AD911年

 この年代、お分かりでしょうか?デーン人(今のデンマーク人)で、バイキング(:海賊)の酋長であった”ロロ”が、ノルマンディー公として当時のフランス王国に広大な土地を与えられた年であります。9世紀から12世紀の間、バイキング(:実質上北欧人であり、ノルマン・ゲルマン民族※通称ガリア人)が地中海周辺に拡大・移住した時期であり、中でも、ロシア・イタリア・フランスへの侵入は際立っています。ロロの動きは、その象徴と言え、現代フットボールを診解くためにも欠かせません。その理由は、以後のロロの働きが物語っています。彼は、ノルマンディーの地では飽き足らず、ドーバー海峡を渡りそのままイングランド全域を統治して行きます。結果的に、イングランドはノルマンの地と化し、乗っ取った形になりました。事実、現英国王室は全て北欧系になっており、エリザベス女王も、北欧の血統なのです。その出自からすれば、現英国はガリアの血であります。

❸ ラグビー・フットボール・ユニオン

 分化以前のフットボールは、手の使用問題で統一されていませんでした。しかし、1863年近代フットボール成立にあたり、統一ルールの制定が英国フットボール・アソシエーションにより成され、同時に手の使用が制限されました。ここで当然に反対派も現れ、1871年ラグビー・フットボール・ユニオンの創設となりました。一般的には、パブリック・スクール、ラグビー校のエリス少年がボールを手に取って走り出した、と言われていますが、これはただの捏造伝説のようです。この種目特性を近代国家の為政者の立場で診た場合、「屈強兵士の養成」にはもってこい、と映ったようで、以降、ラグビー種目のレゾンデートルは決まったのでした。確かに、ルールやポジション名称を深掘りすると、古代からの地中海戦史を籠めるだけこめている様相が如実に物語っています。例として、象徴のスクラムは、”古代ギリシャ軍の戦術である重装歩兵陣形”を模したものであります。日本も明治時代に輸入しており、大学や軍隊に着地しています。特に軍隊では、「闘球」として盛んに行われていました。因みに、米国アメリカンフットボールは、英国の親戚である国家が、亜流表象文化として創ったことは自明ですし、クリケットとラグビーの割り算で構成されています。

❹ one for all all for one

 この合言葉、あまりにも有名です。本気のラガーマンならば、聴いただけでブルってしまう力を持っているかもしれません。出典は、騎士道精神の中核であり、含意は「他人のために、命を投げ出すこと」で表現させていただきます。1844年、アレクサンドル デュマ著「三銃士」にはこのまま出されていますので、興味ある方は、書籍/映画ともに当たって見てください。この物語は、仏国・英国の17世紀を舞台にしたもので、正に騎士道花盛りの時節であります。この精神は百も承知であっても、迎合しようとしない魂胆こそ、ドイツを説明することに繋がります。ジャック ヒギンズ著「鷲は舞い降りた」などには、ドイツ軍人の精神性が露わに書かれていますので、併せてご紹介します。

❺ 神聖ローマ帝国

 これこそが、ジュリアス シーザー著「ガリア戦記」の創るゲルマンコンプレックスの歴史象徴です。この作品の中で、”欧州の雄”の最右翼に立つシーザーが、ローマ帝国と縁しない民族筆頭としてガリア(ゲルマン・ノルマン域の民族)を挙げていることが、後々の全ての判断行為の基準となってしまっていることなのです。国称を診ればそのままですが、その態度は、ローマ/キリスト教/ギリシャへの傾斜回帰に望みを託すかのように映ります。それほど、欧州人にとってのローマシンドロームは重篤である実証とも言えるでしょう。関連で引っ張れば、十字軍/プロイセン/ビスマルク/ヒトラー ~ メルケル までも沁みています。あくまでも、「back to greek」こそ彼らを識る手掛かりなのであります

★関連するであろう5つのポイントを書きましたが、当然にこれだけで尽せることでもありません。しかし、このポイントの集約から言えることは、

「我々の親戚が、色々言って派手にやっているようだけれども、本家がやるようなことではないね。そんなエネルギーがあれば、ギリシャ様に純血を注ぐことに捧げるよ。」

なのです。

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