武道 と 整体 の表裏
この表題に、即反応された方も多いと思います。その世界にいれば、当然とも言えることでしょうが、一度書いておきたかったことであります。
「武」「兵」「軍」で、命のやり取りに生きる人間の洞察性は、究極です。”見切り三寸 修羅一寸”と言われるように、芸者剣法と実戦剣法の本質的隔たりは、非常に大きいことが表現されています。それはあらゆる側面に於いて、研ぎ澄まされ、深く広い認識と集中を持ち合わせる必要性を想わされます。人間という動物実態を浮き掘るには、この領域に精通することは必須であると、日々に感ずるところです。旧来、その修羅一寸に至る為、「修行・修業・鍛錬・訓練」と称し、心技体の全人カリキュラムに臨んで来ました。事実、宗教との絡みは大きいのですが、今回は敢えて割愛します。
武の修行と言いますと、技能習得(わざの伝承)や攻防術が優位に来そうですが、その事に直接間接に紐づく人間身体理解への内容も付帯していました。傷つくことが前提ですから、回復させる術・知恵に長けるのは勿論、技能習得に於いても、”動いて分かる 触れて分かる 動かして分かる”という多感覚学習が、術を極める絶対的下地になっているのは間違いないと感じられます。「からだを識らずして、武道なし」と言えば、最も適切でありましょう。その意味で、武道家が整体師、という姿は、東洋(便宜上、インド以東)では自然とも見えています。一見素朴に見えますが、修行課程の秀逸性は素晴らしいものがあると思います。国内に眼を遣れば、「柔道整復師」という資格が、その残り香を留めている訳です。この事は、嘉納治五郎先生の政治力がものを言ったのですが、追々お話して行きます。
遡れば、古代からの慣習であったことではありますが、現代に於いても、その志向系譜は引き継がれています。また、これからの近未来を考えると、武 兵 軍 に、近代スポーツ などが代替してゆくのでありましょうが、取り組みの重厚さや深さでは見劣りするのが正直な想いです。故に、実践者 指導者 は、技能習得のみに捕らわれない、人間理解の枠を大いに拡げる必要性があるでしょう。
以下、戦後の芸者剣法ではありますが、この系譜に乗る先達を紹介します。方々が、どこのどんな点に焦点を当てたのか、内容やレベルに関しては言及しません。
〇武道医学の創設 中山清
〇武医道の創始 簑内宗一
〇武医道会 高橋華王